フュージョンというカテゴリーの中で、そして、70年代以降ジャズがさまざまな音楽と融合しながら大きく変化していく時代の中でもっとも重要なバンドを挙げるなら、リターン・トゥ・フォーエヴァーはかならずその候補に入るだろう。
マイルス・デイヴィスに起用されて『イン・ア・サイレント・ウェイ』や『ビッチェズ・ブリュー』でキーボードを弾き、エレクトリックなサウンドに没入していったマイルスに刺激を与えた先鋭的なピアニスト、チック・コリアがベーシストのスタンリー・クラークとともに結成したリターン・トゥ・フォーエヴァーは、マイルスと作り上げてきたものを活かしつつ、まったく別のエレクトリック・ジャズとして提示した。それは同じくマイルス・デイヴィスのバンドにいたジョー・ザヴィヌルによるウェザー・リポートやハービー・ハンコックのヘッド・ハンターズとも異なる表現だった。
1972年に、サックスとフルートを吹くジョー・ファレルをフロントに、ブラジル出身でマイルス・デイヴィスのバンドの同僚だったドラマー/パーカッション奏者のアイアート・モレイラ、そして、同じくブラジル出身のヴォーカリストのフローラ・プリム(パーカッションも担当)を迎え、チック・コリア名義で『リターン・トゥ・フォーエヴァー』をリリースする。ブラジルなどのラテンの要素を取り入れたサウンドとフローラ・プリムのスキャット、そして、ECMレーベルならではの透明感のあるサウンドが組み合わさった本作は大ヒットし、名盤として語り継がれることになる。翌年にはチック・コリア&リターン・トゥ・フォーエヴァー名義で『ライト・アズ・ア・フェザー』(73年)をリリース。チック・コリアとリターン・トゥ・フォーエヴァーの代表曲となり、数多くのカヴァーを生む「スペイン」はここで生まれている。
しかし、サウンドの核を担っていたジョー、アイアート、フローラが脱退し一気に方向転換を迫られる。そこでレニー・ホワイトやビル・コナーズを迎えて発表されたのが『第7銀河の讃歌』(73年)だ。これまでのブラジル路線は消えて、同時代のプログレッシヴ・ロックやハード・ロックの影響をも感じさせるハードなロック・サウンドに。このサウンドもまた後続のフュージョンに影響を与えることになる。
しかし、このバンドは出入りが激しく、ビル・コナーズが脱退し、代わりにアル・ディ・メオラが加入し、『銀河の輝映』(74年)をリリース。しかし、リターン・トゥ・フォーエヴァーのすごさはメンバーの変化が逆に好機となり、新加入したメンバーの個性を活かすように楽曲に反映させることで、サウンドをフレッシュにしてきたことだ。フラメンコやバルカン音楽、ラテン音楽などを取り込んだアル・ディ・メオラの超高速フレーズや奏法を手に入れたことで、ハードなロックから、さまざまな地域の音楽を飲み込みつつ、さらにテクニカルなサウンドへと進化した。その結果、『ノー・ミステリー』(75年)ではグラミー賞の最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンスを受賞するほどの評価を受け、代表作のひとつでもある『浪漫の騎士』(76年)を生み出す。『浪漫の騎士』は中世をテーマにした壮大でノスタルジック、幻想的でロマンティックな世界観をもったコンセプト・アルバムで、プログレッシヴでファンキーなジャズ・ロック~フュージョンを軸にしながらも、フラメンコやクラシックの要素、さらにはどこかオリエンタルなフレーズなどをちりばめていて、スタンリー・クラークやレニー・ホワイトのパワフルさと、アル・ディ・メオラとチック・コリアの音楽性が絶妙に噛み合った傑作だった。
そして、またもメンバーチェンジ。アル・ディ・メオラとレニー・ホワイトまでもが脱退。しかし、ここでもリターン・トゥ・フォーエヴァーらしさを貫く。ジョー・ファレルが復帰し、ジェリー・ブラウン(ds)、ゲイル・モラン(key,p)、ジョー・ファレル(サックス、フルート)が加入、さらにジョン・トーマス(トランペット)、ジェイムズ・ティンズレイ(トランペット)、ハロルド・ギャレット(トロンボーン)、ジム・ピュー(トロンボーン)と4人の管楽器を迎えて、分厚いホーン・セクションとゲイル・モランのコーラスにより、ファンキーでアンサンブルにこだわったサウンドのアルバム『ミュージックマジック』(77年)で勝負した。バンドとしてはこれを最後に解散し、その後、82年、2008年、2011年と再結成している。
リターン・トゥ・フォーエヴァーのサウンドとは? という問いには簡単に答えられないのがリターン・トゥ・フォーエヴァーの特徴だ。幾多のメンバー交代を経ながら、そのメンバーが生き生きと演奏することでその個性を生み出してきた。チック・コリアとスタンリー・クラークを核に、つねに変化しながら未知のサウンドを模索してきた。フュージョンという新たなジャンルが生まれたのとほぼ同時に動き出したこのバンドは、まさにフュージョンのあり方を身をもって示してきたのかもしれない。